地縁による青年組織の解体


① 組織の高揚と衰退を団体から離脱する青年層


ア 戦後における青年組織の変容

戦争継続を下支えした青年層は、敗戦というカタチで終わった戦争後、否応なしに何を拠り所にして戦後を生きればよいのか、という大きな命題と直面しなければならなかった。

混乱した世相を象徴するように、青年層は“自由主義”という、戦前とはまったく異なる“流行”にどう身を置いていいのか迷い、なかには不良化する若者も現れた。


戦前からの青年団組織は、戦争に加担した存在として連合国軍総司令部(GHQ)から理解を得られなかったが、次第にこの組織を再出発させる方が有効と考え、組織化を促した。
政府は戦後社会をリードすべき立場の青年層に新しい時代を託す意味で新たな息吹を吹き込む必要があった。
学校教育以外の組織的な教育活動を法律上の社会教育として定義づけ、主として青少年および成人に対して行われる組織的な教育活動(体育およびレクリエーション活動を含む)を発展させることをめざした。


こうして、政府は社会教育に関する国、地方公共団体の任務を明らかにすることを目的として、昭和24年(1949)6月に「社会教育法」を公布・施行した。
地域青年団・会の組織は、町内会・自治会・大字単位で組織されるのが基本・原点であり、戦前の組織を受け継いでいる。その多くは町内会・自治会の青年部という位置づけとなっている。
これら組織は、その上部組織である公民館や小・中学校単位で連合組織に入っていた。その上部団体は市町村や郡、さらには都道府県につながり、昭和26年(1951)5月には全国組織の「日本青年団協議会」が発足されるまでに至った。


社会教育法では青年学級の設置は任意組織として位置づけられていたが、昭和28年(1953)8月、「青年学級振興法」が施行されたことにより、15人の申請を満たせば青年学級を開設しなければならないことになった。
川部村では小川上で16人、小川下・山玉・三沢・沼部・瀬戸で82人が申請したことから、昭和29年(1954)4月開会の村議会で開設を決議した。開設場所は川部小学校講堂、学習内容は一般常識、珠算などであった。


昭和29年(1954)7月開会した村議会においては、青年学級の開設が決議された。しかし、青年学級の参加者は組織的には旧来の青年組織と重なっていた。活動面では神社の祭りや村行事など、戦前からの地縁が色濃く継がれており、年長者はそのなかで戦後の新しい風潮をどのような溶け込ませるか腐心したが、若者はこれらを融合させることに抵抗はなかった。



イ 勿来地区の青年会


戦後社会が落ち着くと、青年活動は次第に新しい時代に浸透していく。「菊多地区連合青年会」は旧菊多郡内の村で構成されており、下部組織として勿来地区の町村を単位とした各青年会が位置し、ほかに遠野、田人、泉、渡辺が含まれていた。その組織は「昭和の大合併」時の昭和29年(1954)まで続いた。


昭和20年代後半における植田町青年会の活動をみると、歴代会長は町議会議員として町政に参画し、町の動きを会員に周知するとともに、中央から経済学の大家や文化人を招いて常に社会に関心を持つよう努めている。

具体的な取り組みとしては、昭和27年(1952)5月には、植田町青年会が単独主催となって町長や助役などを招聘して「町政を聴くの会」を開催し、町の課題や町政の進展策について、意見交換を行っている。(昭和27年5月25日および30日付 『いわき民報』)
さらに、町制施行30周年記念事業として国道沿いの金山にサクラを植樹する際に、会員が積極的に参加した。町内の婦人会や文化団体とも協調を保つよう心がけていると、活動状況が報告されている。(昭和27年5月7日付 『磐城日日新聞』)



ウ 過渡期になる青年会活動

昭和30年代に入ると、青年会の活動は停滞、低迷期に入り、その数、会員数ともに減少していく。
特に、村の将来を担うはずの農家の青年層は、昭和30年代以降の高度経済成長期のなかで、職住分離や離農、またはサラリーマンとの兼業という多様な生活が選択できるようになると、会社勤務の時間割り振りのなかで生活をおくるようになり、農作業など共同で携わる機会が減っていく。
そのなかではもはや、農家相互の共通課題が得にくくなり、青年組織離れは止めようもなかった。それは若者が担っていた村のさまざまな機能が希薄になっていく過程でもある。

こうして、高度経済成長の進行に伴って若者の価値観も多様化し、地域における青年組織の求心力が低下していった。

総じてみると、青年組織について、戦前は行政主導の組織で、半ば強制化されたものであったが、戦後は任意団体となり、高度経済成長の進展とともに公益性が低下して、休廃止への抵抗もなくなっていった。




② 錦町青年会の活動と衰退

ア 戦後、再出発した青年組織と改変


青年会活動の盛衰を、「錦町青年会」に残された文書でみることができる。戦前の組織を引き継いだ同青年会は、昭和20年代に綱領、目的などを一新して、「青年の意気と情熱とを以て綱領(「文化の向上と人格の陶冶につとめ民主主義を推進」)の実践につとめ、郷土錦町の発展に寄与する」と改めた。


この時期、各地域の青年団体は地域のリーダーとして、さまざまな活動を展開していく。
昭和24年(1949)度、錦町の青年会には、青年の不良化防止や町村政に対する理解、農業技術の向上などを目的に、県指定の青年学級が置かれ、活動費として5,000円が補助された。
このようななか、昭和25年(1950)8月に開催した熊野神社の例祭に際しては、鮫川灯籠流しの行事を、錦町青年会が主催して行う、さらには昭和26年(1951)12月に植田町で開催された農産物品評会では植田町役場、植田農業協同組合とともに植田町青年会が共催となるなど、地域行事の先導的役割を果たした。

また、山田村青年団は生活改善を図るため、消防職員と連携して、昭和24年(1949)7月中旬から8月3日まで、約2,300人を動員して村内の便所、下水、墓地、馬小屋などをDDT約200ガロン(約760ℓ)を散布した、と同8月5日付の『いわき民報』は、報じている。


さて、錦町青年会の組織状況をみると、会員は16歳以上30歳未満の男女で、錦公民館を事務所とした。
組織的には福島県連合青年会(昭和22年2月創立)、下部組織として石城地方青年連絡協議会、さらに勿来地区の錦町を含む3町2村が同協議会に加盟していたが、勿来市が昭和30年(1955)4月に誕生したことにより、勿来市連合青年会の下部組織として昭和34年(1959)4月にあらためて再発足した。組織内には体育、文化、産業、政経の各部が配置された。



イ 時代変化とともに変容する活動内容


昭和30年代における錦町青年会の事業内容をみると、文化興隆、産業振興、社会問題、政治経済研究、体育向上など、幅広い活動をめざした。


昭和35年(1960)度の活動内容では、文化部では指導者講習会、錦-平のサイクリング大会、産業部ではハエ、カなどの病害虫撲滅運動実施のための薬剤散布、農事視察、農事のための気象長期予報お知らせ、体育部では町民体育大会、勿来市連合青年会体育祭、分会対抗親睦ソフトボール大会、政経部では講演会などを実施。青年学級との共催で須賀海岸でキャンプ大会を実施しており、多彩な活動ぶりをみることができる。

分会のうち大倉上分会では、8月1日の熊野神社祭礼の前日に勅使汐垢離への参列、旧暦の9月23日の「お日待ち」講など、長年の地域慣習に根差した活動が実施されていた。


事業計画の推移をみると、昭和30年代初めにみえていた稲の下刈り、稲の刈り取り、気象長期予報など、農事に関わった事業は姿を消し、代わりに身近なところで急速に悪化してきた交通環境に意識を向け、昭和37年(1962)10月には勿来市が唱えた交通安全都市宣言に合わせて実施した市主催の交通安全パレードに参加した。




ウ 青年意識の多様化のなか、姿を消した青年組織


戦後まもなく、新しい時代を担う青年組織は活発となった。青年組織は各市町村単位で組織され、勿来地区の場合はその上部に旧菊多郡(勿来地区に加えて、現在の田人町、遠野町、渡辺町、泉町)をエリアとする菊多方部が位置づけられていた。また錦町青年会の下部には各分会が組織されていた。


たとえば錦町青年会は、大倉上、同下、江栗、長子、須賀、安良町、上中田の分会から成り、毎年行われた秋季運動会では、入賞者が菊多方部青年陸上競技大会に出場した。


錦町青年会の会員数の推移をみると、昭和20年代半ば、各分会では申し合わせたように女子会員が脱会している。その後は男子会員も減少の一途をたどり、加えて昭和30年代半ばになると、須賀(昭和35年には解散が取り沙汰された)、上中田、安良町の各分会の活動が鈍くなり、安良町分会は昭和36年(1961)から休止扱いとなった。


昭和36年(1961)4月の役員会では、安良町分会を脱会とみなさず、分裂問題が解決したならば継続されることを望み、安良町分会問題は保留扱いとしている。この年度の事業計画では、各分会などを巡回して青年会の認識を深めてもらい、減少する会員を補うことを考える、と文言化しており、青年会にとって存続への危機感が強まっていることがわかる。


こうした傾向のなか、隣接する勿来町大高青年団は昭和37年(1962)頃、姿を消した。


勿来市連合青年会では、昭和37年(1962)に会員1,267人に対して意識調査を実施している。青年会の必要性については、「必要あり」と答えたのが、153人(12%)、「必要なし」が36人(3%)、「無回答」が1,067人(85%)、特に女性は「必要あり」は7%、「無回答」が91.5%に達した。


不満事項については、会員が少ない、目的が不明瞭、会員意識が低い、が挙げられた。


この調査の特徴は、無回答が圧倒的に多いことだ。青年会の問いかけに、ストレートに否定的な返答をしたくない、という表現方法であったものと、みることができる。
会員のうち、他サークルやグループに入っていない者を対象に、これらに入りたいかどうか、を訊ねている。これによると「思う」が297人(25%)、「思わない」が428人(36%)となっており、男性、女性ともに「自分の趣味を活かせるようなもの」「自由に話し合えるもの」が上位となっている。


「地域」というフィールドよりも、個人の「趣味」や「興味」が優先されてきている考え方が若者の間に広がっていることが読み取れる。
農村部においても青年会離れは止まらず、たとえば山田町大津青年会は、昭和54年(1979)1月、廃止となった。こうして、明治時代以来から受け継がれてきた従来型の青年組織の多くは姿を消していった。



③ 維持される青年会組織

ア 関田青年組織の活動



昭和41年(1966)3月に発刊された『勿来地方の民俗』(29、30ページに記述)は、関田地区の青年組織に触れている。


同書によると、明治時代以来、3系統の若者組織があったと報告されている。


一つは祭典の世話をしていた若者組が明治時代に消防組へ移行し、戦後消防団組織に組み入れられた。戦後は広範な地域活動を担っていたが、昭和35年(1960)に伊勢両宮神社の氏子青年団ができると、消防団としての活動に特化していった。


二つは行政の指導によって組織された青年会で、青年団へ改編されたが、昭和40年(1965)頃は有名無実化した、と報告されている。


三つとしては、伊勢両宮神社例祭の世話に特化させるために消防団から分離した組織の氏子青年団である。昭和35年(1960)に、新たに設けられたものである。


このように、関田地区においても昭和30年代を境に若者組織は大きく変化していった。


イ 小川上青年会の活動


一方、組織を変えない青年会も存在する。


川部地区の小川上青年会は、明治28年(1895)に組織(当初は「大字小川上組若者組合」)を設置(『いわき市勿来地区地域史2』44ページに記述)して以来、名称を変えながら存続してきた。下部組織として地域を橋本組、中(後に中芝)組、根小屋組に区分し、組ごとに選ばれた組頭が全体組織に参画した。


当初の活動目的をみると、「当組合ハ當字舊来(これまで)ノ慣習ニ基キ字内ノ祝祭葬儀及不時ノ災難ニ関スル義務ヲ尽シ永久ニ之ヲ行フ」としており、以来文言の修正はあるものの、大筋の趣旨を変えていない。


それでも地区全体の人口減少などが組織人数の減少に及んだことから、昭和47年(1972)8月には、これまでの会員資格上限(40歳)の引き上げを検討したが、寄せられた意見35のうち賛成8、現状維持13、白紙14で実施されなかったものの、その後青年会の活性化にはつながらなかった。人手不足のなか、八幡神社に係る例祭準備の役割を返上せざるを得ず、納涼盆踊大会の開催(昭和53年から実施)を担う役割へ変更した。

川部村のような農山村においても社会変化が確実に訪れ、青年組織はこれにどのように対応すべきか、試行錯誤が続く。

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