2 エネルギー政策の転換と石炭活用


(1) 常磐炭の活用方法を検討

① 低品位炭を取り巻く環境


日本ではまとまって石油が採取できる油田と称される場所はなく、戦前からすでに戦争を継続するうえで大きな足かせとなった。

石油の不足は戦後にあっても同じで、精製工場の設置も認められなかった。
昭和24年(1949)7月に至り、ようやく連合国軍総司令部(GHQ)の禁止解除によって太平洋精油所が開設されたばかりだった。

一方、ドッジ・ラインと呼ばれる超緊縮財政に基づき石炭優遇策が撤廃された昭和24年(1949)、常磐炭田の大半を占める熱エネルギーの低い、いわゆる低品位炭と呼ばれる炭質の劣性な石炭を販売開拓する戦略として、昭和24年2月に開会された福島県議会定例会において知事は「低品位炭使用工場の誘致とか、火力発電所の誘致も考えられる」と将来の石炭政策に触れた。
熱カロリーの低い常磐炭の供給市場は次第に狭まっていた。
同年5月には、「常磐炭利用懇談會」においても低品位炭の活用について協議したが、ボイラーの改修などの設備変更を伴うことになり、費用対効果の点で研究不足であり、時期尚早として、継続して協議を続けることとした。

ところが、昭和24年(1949)6月に勃発した朝鮮戦争がこの危機を救ったため、低品位炭の本格的な活用は棚上げとなった。
この時点では、低品位炭のライバルは高品位炭であった。
一方、工業の発展とともに全体的な電力不足が明らかになって、昭和26年(1951)頃には火力発電所の誘致が盛んとなった。
この時点で、まだ低品位炭の活用については論議されていなかった。



② 低品位炭を発電エネルギーへ活用


しかし、この間に石油を取り巻く状況が大きく変化した。
朝鮮戦争は日本における石油消費量の増加を促すとともに、重化学工業の急速な発展とそれを支えた技術革新が、エネルギー効率の面で優位となった石油を求めるようになり、特に燃料としてではなく化学工業の原料としての石油が業界に歓迎された。

それまで京浜工業地帯を得意先にしていた常磐炭田の石炭関係者は、高品位炭に加えて石油からも駆逐されるのではないか、という強い危機感に見舞われた。
昭和27年(1952)7月には石油統制が撤廃されるとともに、石油の発掘技術が進歩して、世界各国で大量の石油産出が可能となった。

その一方で、採炭に必要な電力との関係において大きな変化があった。
活況に伴い電力需要が伸び、この時期に電力各社は、大口需要者に対し大幅な料金値上げを実施した。東北電力㈱では昭和26年(1951)には18%、翌年には32.2%の値上げを実施した。炭鉱経営者には、このような電力事情に対処する自衛手段を講じるべきという考え方に傾いていく。

このような状況のなか、低品位炭を火力発電所の原料として使用することで石炭産業界の活性化が図れるものとして、昭和28年(1953)8月、常磐地区の各炭鉱で組織された「常磐炭利用火力発電所建設期成委員会」(会長=常磐炭礦㈱会長・大越新氏)が発足し、同年9月には工業が盛んで、交通の便が良く、取水の容易な小名浜町や植田町、茨城県の高萩町に協力要請した。

低品位炭と火力発電所への利用を報じる新聞
〔昭和28年(1953)9月18日付 『いわき民報』〕

これら組織は、福島県の全面的な協力を得て、同年「常磐地方総合開発期成同盟会」(会長=福島県知事)に組み入れられ、さらに電力会社や国が加わって検討会が開催され、建設機運が高まった。

この間、常磐炭礦㈱では既設の平火力発電所において低品位炭の活用について成果を出し、技術的にも実現可能となり、建設へ大きく足を踏み出した。




(2) 低品位炭の活用を目的に火力発電所を建設

① 火力発電所を誘致


鮫川河口左岸は潮風の影響を受け、河川後背地の水田は湿田状態であった。
したがって収穫量が低く、一部は荒地となっていた。
植田町議会は昭和28年(1953)10月、この地に誘致運動を展開することを決めた。

昭和28年(1953)11月には、経済審査庁関係者が設置候補地とされた植田町大字岩間や小名浜町を調査し、広い施設用地や発電に必要な大量の冷却水の確保に適した鮫川河口左岸、植田町の有利を感触として摑んだ。
常磐炭田のほぼ中央に位置している点も有利に働いた。
これを受け、「常磐炭利用火力発電所建設期成会」は植田火力発電所建設計画を策定し、建設予定地を植田町大字佐糠および大字岩間と決めた。

昭和29年(1954)3月には、茨城県庁内に「常磐炭利用火力発電専門部会」、同5月には福島県庁内に「低品位炭活用対策研究会」がそれぞれ設けられ、誘致合戦が過激になった。
植田町は鮫川左岸河口域を適地として誘致に積極的だった。

昭和30年(1955)4月に植田町は他の2町2村と合併して勿来市となり、植田町長・古川傳一氏(下巻に記述)は市長選挙を経て勿来市長へ就任し、そのまま火力発電所誘致を積極的に進め、関係者を含め優位を認識しつつあった。

ところが、この時期、茨城県においても東京電力㈱と連携して巻き返しの誘致運動を展開した。
高萩町は立地条件としては植田町に比べ、交通の便、敷地の状況などの点で優位として猛烈にアピールしてきた。

このようななか、昭和30年(1955)9月開会の勿来市議会定例会において、「火力発電所誘致に伴う敷地等の無償についての件」が満場一致で決議された。
建設場所は鮫川河口近く付近の湿田や荒れ地など4万5,000坪(約15ha)に及び、火力発電所敷地に加え、同住宅地・専用線敷地1万5,000坪(約5ha)を無償提供する内容であった。
このほかにも用水路、灰捨て場の確保、上水道の拡充などの建設に必要な条件整備を提案し、承認された。

昭和30年(1955)9月に開催された「常磐地方総合開発期成同盟会」の理事会では、火力発電所の建設地を勿来市に決し、期成同盟会を挙げて誘致運動を展開することとした。
この際に、買収する3万坪(約9.9ha)の敷地について、勿来市が無償提供することを提案して了承された。
これ以降、通産省をはじめ、関係機関に官民を挙げて積極的な働きかけを行った。

火力発電所の誘致状況を報じる新聞〔昭和30年(1955)9月16日付 『いわき民報』〕

これに対し、茨城県は関南村(現北茨城市)の海岸寄りに候補地を変更して福島県に対抗した。

発電所建設をめぐっては、低品位炭の買い上げをめぐって電力会社と炭鉱業者との間で折り合いが持たれ、通産省が示した炭価(3,500カロリー)t当たり1,250円が基本となって調整が行われた。

こうした火力発電所の誘致合戦は、昭和30年(1955)11月、勿来市植田岩間町、同佐糠町地内に建設することが決定して、決着をみた。



② 電力会社と炭鉱が出資して、佐糠・岩間地内に建設



火力発電所の概要をみると、企業形態は常磐炭田内の常磐炭礦㈱、古河鑛業㈱、大日本炭礦㈱、宇部興業㈱、戸部鑛業㈱、高萩炭礦㈱の炭鉱8社と関係電気事業者の東京電力㈱、東北電力㈱との共同出資、新会社の資本金は発電所建設費総額の4分の1(10億円)程度、計画出力は当初7万kw(将来10万kw)などであった。

昭和30年(1955)11月21日に開会された勿来市議会臨時会では、「火力発電所敷地買収費として一時借り入れの件」、「同敷地無償提供の件」(岩間、佐糠敷地3万坪〔後に4万坪〕)が提案され、原案とおり可決された。
勿来市用地を無償提供したことにより、敷地買収費として地主に支払った9,000万円を含む1億1,500万円の負債を背負うことになった。
この金額は勿来市の年間予算の半分以上を占めるものであった。

市は常磐炭礦㈱から一時借り入れして、昭和30年(1955)度および31年(1956)度特別会計の火力発電所建設協力費として支出した。
このため、新市当局のなかにも「敷地の無償提供などはとんでもない話だ。そんなことをしようものなら勿来市は永久に赤字に悩まされる」と反対する声もあった。

昭和30年(1955)12月開催の「常磐共同火力㈱」設立総会では、設立時資本金は2億5,000万円、定款などが決定された。
設立時資本金は2億5,000万円。
先の火力発電所の概要に加え、炭価はt当たり1,200円程度、配電は東京電力㈱と東北電力㈱で折半、資本金10億円の内訳は東京電力㈱、東北電力㈱で各2億5,000万円、炭鉱会社6社で5億円を出資する(翌年12月には目標の10億円に増資)、とした。
また、1か年に使用される低品位炭は36万tとした。

昭和31年(1956)2月末には土地買収価格が決定。同年2月からは埋め立て工事か開始され同年11月に完了した。

併せて、植田石塚町に設けられた植田操車場-発電所の専用線は昭和32年(1957)4月、本線2.4kmが完成した。


③ 市を挙げて、完成を祝う


本体工事は昭和31年(1956)5月から進められ、翌年11月に竣工した。
東北電力へ送電(第1号機3万5,000kw)したのは、昭和32年(1957)11月。
さらに同月には東京電力へ送電(第2号機3万5,000kw)を開始し、第一期計画の7万kw分について工事が終了した。

石炭を貯蔵する屋内大貯炭場(高さ20m、幅72m、長さ100m、貯蔵量2万t)は当初計画に含まれなかったが、運転後石炭の水分が多い場合は、粉炭化しにくく作業効率が落ちることから、貯蔵炭を雨から守る蒲鉾型ドーム型の上屋を造った。
なお、この工法は後に常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)の施設建築に活用された。

常磐共同火力㈱勿来発電所の落成披露式は昭和33年(1958)4月、同工場の屋内大貯炭場内で関係者1,300人が集まって盛大に挙行された。
余興としては、平、湯本、植田などの芸妓200人による舞踊、山田の奴行列、水戸の大神楽、沼部青年会の神輿などが披露会場に繰り出し、また植田市街には提灯と万国旗、さらに会場と植田駅、鮫川橋に大アーチに飾られ、祝賀ムードに沸いた。


現在の常磐共同火力

 (3) 発電所設置後の石炭活用

① 恩恵を期待する勿来市


昭和32年(1957)に操業が開始されると、勿来市には昭和33年(1958)度から固定資産税が入ることになる。
初年度は600~700万円、1年ごとに増え、10年目には全額7,000~8,000万円に達することが見込まれた。                                   
後年、いわき市の合併が進んだとき、勿来市が賛意を示しながらも合併時期を後ろにずらそうとした経緯があったが、これには固定資産税の恩恵を少しでも多く勿来市単独として充足させようとしたからにほかならない。


② 常磐炭礦閉山後の石炭受け入れ


ピーク時の昭和45年(1970)には、常磐炭田で産出する年間約400万トンのうち235万トン近くに及ぶ石炭が発電所で消費され、石炭産業不況の克服に大きな力となった。

しかし、石炭を供給していた常磐炭礦㈱磐城礦業所が昭和46年(1971)に閉山となった。
これに代わって常磐炭礦㈱西部礦業所が開山したが、採炭が長期に及ぶ可能性がないことを踏まえ、常磐共同火力㈱は重油への燃料切り替えの準備を進める一方で、輸送体制を鉄道からトラックへ転換していった。
植田駅からの専用線輸送は昭和48年(1973)2月に停止された。



hysteric_karyokuA2
http://www.irasutoya.com/ より