(2) 生活スタイルを変えたテレビ

① テレビの登場

昭和16年(1941)12月、日本放送協会(現NHK)平放送局は50wの出力でラジオ放送を開始した。
昭和28年(1953)12月にはこの年6月に建設した平放送局舎から地元に密着したラジオ放送を開始した。

ところが、音だけでなく映像を届けるテレビが登場。
昭和28年(1953)2月に国内でテレビ放送が始まった。
県内で東京からの電波をキャッチし、テレビ受像契約第1号となったのは昭和29年(1954)4月、植田町のラジオ商・胡口三郎氏であった。

昭和29年(1954)4月20日付『いわき民報』は、
「植田本町通りの胡口ラジオ店で据付けているテレビの受像は試験的とはいえ、技術の進歩によって最近は案外明瞭に映るので、何時も店頭は黒山の人で人気を煽っている」
と報じている。

昭和30年代に入ると、テレビ放映の準備が進み、昭和31年(1956)3月、NHK平放送局でテレビ受像の申請を初めて受け付けた。
当時の値段は1台当たり20~10万円。
会社員の平均月収が1万3,800円程度であったことから、いかに“高根の花”だったことがわかる。

東京からの電波を確実に捉えるため水石山に中継受信所が誕生して、昭和33年(1958)3月、NHK平放送局から映像出力25wによる総合テレビジョンの放映が開始された。

さらにテレビ拡大に備え、日本放送協会は昭和38年(1963)11月には、NHK平放送会館を平字小太郎町に建設し、放送設備の充実を図った。

一方、民間放送の福島テレビは昭和38年(1963)4月、水石山サテライト局から映像電波を発信し、これに福島中央テレビ(昭和45年)、福島放送(昭和56年)、テレビユー福島(昭和58年)が参入し、また海岸域では東京キー局の映像電波を直接受像することができた。


② 急速に家庭のなかへ普及するテレビ

ア 購入を促進させた低価格化

高度経済成長が進むにつれて国民所得は急増した。
また、所得増を見込んだ電化製品の分割払いが普及するにつれて無理をすれば購入できる価格へ、さらに大衆への普及は誰でも買える価格の低下を実現させ、またたくまに家庭に入り込むようになった。

勿来市では昭和37年(1962)7月で3,360台、昭和38年(1963)7月に世帯数1万389に対して5,900台と、普及率56.8%、昭和40年(1965)10月には世帯数1万928世帯に対し、8,503台、普及率77.8%と急増していった。
昭和40年ではいわき地方全体においても、普及率は77%に達した。

昭和40年(1965)9月からは福島県下一斉にカラー放送が開始され、たちまちそれまでの白黒テレビに取って代わった。


イ テレビの果たしたさまざまな影響力

戦前から実験が進められ、課題とされてきたテレビの実用化は、「受像機の価格が下がって家庭に置かれる、番組が天然色(カラー化)になる、大型画面が登場する」、という近未来の空想物語として戦後まもなくに引き継がれ、実際にそのとおりとなり、当初懸念されていたテレビは見る側の思考力を奪う、大衆操作の道具に使われる、という警戒や不安をよそに急速に家庭に浸透した。
その懸念は一面予測どおりとなったが、それよりも大きかったのは、今起こっていることの臨場感を瞬時に伝えるという即時性であった。
プロレス中継や皇太子ご夫妻のご成婚祝賀パレードはその象徴的な場面であった。

確かに、テレビの前では受け身の一方であったが、テレビはテレビである以上に、ふだんの人々の行動や思考に深く浸透し、さまざまの考え方を見る側に提示してきた。
家庭の団欒にテレビが入り込み、茶の間の様相を変えたのもテレビだった。
テレビは政治、経済、文化、教育など、さまざまな分野に多大な影響を与えながら浸透していった。



(3) 映画の全盛期と衰退期

① 黄金期を迎えた昭和30年代の映画

昭和33年(1958)、この年の映画入場者は11億2,700万人を数えた。
いわき地方(久之浜町、大久村を除く)では409万7,632人で、料金収入は2億5,484万円であった。
また、映画館については昭和34年(1959)5月現在では、いわき地方においては毎日上映している常設館31館、連続して上映しない準常設館15館、合計46館が所在した。
全国では昭和35年(1970)に7,457館を数えた。

勿来市では、植田町を中心に映画館が相次いで開館した。

このうち植田町では、昭和22年(1947)2月に菊田座が火災で焼失して以来、映画館がなくなったため、新たな設立が望まれた。
昭和24年(1949)から地元有志によって設立準備が進められた。
このときは、敷地や財源が課題となって容易に解決に至らなかったが、植田町字番所下の土地が提供される支援を得て、昭和26年(1951)11月、「菊多劇場」として開館した。
菊多劇場は、昭和29年(1954)2月に菊多館(下巻に記述)と改称され、さらに同年12月に休憩室や手洗所の新設、売店の拡張、場内外の改装が施工されて再開場し、以来、昭和59年(1984)11月の閉館まで営業を続けた。


菊多劇場跡地

続いて、植田町字台町には昭和27年(1952)1月に植田館、昭和34年(1959)4月に中央館、本町には昭和34年7月にロマンス館、準常設館としては字横町に末広座が、それぞれ設立された。

錦町では昭和27年(1952)に錦座へ改装(昭和11年に錦劇場として開場)、勿来町大字関田字寺下には勿来映劇(旧勿来館)、勿来町大字窪田字白山には常磐劇場(旧共楽座)、川部村大字三沢字ナベ坂には川部映劇が、それぞれ新しいスタイルで稼動していた。

昭和30年半ば、全盛期の映画事情をみると、勿来市における1人当たり年間入場回数は10回で、平市22.9回、好間村14.8回、常磐市11回、磐城市10.9回に次いでいた。同じく入場料金では勿来市は736円で、平市2,005円、常磐市886円、磐城市823円に次いでいた。



② テレビの影響を受け、映画は退潮期へ

しかし、国内における映画入場者数のピークとなった昭和33年(1958)は、くしくも昭和33年3月からいわき地方で始まったNHK平放送局によるテレビ放送の時期と重なる。以降、映画界は長い間の退潮を余儀なくされていく。

昭和38年(1963)、いわき地方における映画入場者数は217万5,000人、入場料金収入は2億4,814万円と入場者数ではわずか5年間で半減しており、物価高・人件費アップに伴う入場料金の値上げでようやく収入減を抑えているという状況であった。
昭和38年だけで8映画館が姿を消し、残る39映画館のなかには姿を消すものも続出すると新聞は報じている。(昭和39年3月18日付 『いわき民報』)

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http://www.irasutoya.com/ より