(1) 進む国道6号の整備

① 幹線道路の整備といわき地方

ア 残された植田-湯本の国道整備

本格的な道路整備については、大正9年(1920)4月、「道路法」が施行(『いわき市勿来地区地域史2』148~150ページに記述)されたことに伴い、東京-仙台が第6号国道に指定された。
整備については、まず昭和11年(1936)に夏井川に架かる平神橋、次いで昭和14年(1939)に鮫川に架かる鮫川橋が、それぞれ架橋されてスタートした。

その後、戦時下、輸送の強化を図るため、改良工事は湯本町の常磐線踏み切りから内郷を経て平市街地の手前、内郷町大字小島まで6.72kmの区間が優先され、昭和15~17年(1940~42)に旧国道の幅員を拡幅することを基本として改修された。

当時の国道改修の考え方としては、既設道路の拡幅を基本とするのが通例であった。
街並みを避けて新たに用地を求めるにしても市街地を迂回する程度であった。
しかし、植田市街地北-湯本町については、既設の道路を拡幅しようとすると、屈曲が多いうえに、常磐線を二度も交差しなければならず、また湯本市街地内の既設道路も狭隘であった。

その後、国道整備については戦時下の石炭増産に伴う輸送力を増強するため、昭和19年(1944)度から3か年事業で勿来-平の国道整備が予算計上されたが、実施されることはなかった。
道路事業は軍事道路優先策が取られ、勿来地区を含め湯本市街地以南および平市街地―久之浜の区間については手つかずのまま、戦後の混乱期を経た時代まで待たなければならなかった。



イ 金山を通る新設道路を選択

植田町-湯本町の計画線変更は偶然から起こった、と関係者は伝えている。
昭和13~18年(1938~43)まで磐城国道工事事務所(現磐城国道事務所)長であった長浜時雄氏は『福島県直轄国道改修史』において
「植田湯本間は相当の距離だが、全部計画路線の変更をしなければ駄目だと痛感した。
このとき思い起こしたのが前述の丘陵地だ。
今度(昭和20年代初め)は計画路線の変更を目的にして再び踏査し、実測させてみたところ充分使える確信を得たので、まず植田町長と小名浜町長を説き伏せ賛成させ、湯本町長も町内が現状維持できると賛成した」
と経緯を記述している。

このなかの前述とは
「私は甲の現場から乙の現場に移動する際、よくわき道を通るのが癖であるが、あるとき鮫川橋の現場から小名浜築港の現場に行く際、植田から国道(旧浜街道)に沿わないで海岸寄りの丘陵地を抜けてみた。
丘陵への上り下りは一寸した急坂だが、中央は平坦で太平洋を手近かに望むなかなか景色のよい所だ。
この印象は私の脳裏に深く刻み込まれた」

植田町の関係者としても、昭和20年代初めには植田町-佐糠-岩間を経て小名浜の一部を通る海岸線コース、あるいは植田町渋川-金山-泉村を経て小名浜に至るコースのいずれかについて要望していた。前者は海岸線近くで観光ルートへ、後者は金山開拓(第3巻下巻に記述)に弾みがつくものとみられていた。
比較検討の結果、後者の経路が採択された。


※グーグルマップでは旧6号国道が「陸前浜街道」と表記されてしまっている

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http://www.irasutoya.com/ より