⑤ 学校給食の推進

ア 学校給食の整備過程と模索

学校給食は昭和7年(1932)、恐慌後に貧困で欠食に苦しむ児童を救済するための学校給食に、国庫補助を入れたのが始まりで、昭和15年(1940)からは栄養不良や虚弱児童も対象となったが、戦時下、食糧難によりほとんど対応できなかった。

戦争終了後の昭和21年(1946)12月から、アメリカの宗教団体や労働団体などによるララ(アジア救済団体)や連合国軍総司令部(GHQ)の放出物資、国際児童基金(ユニセフ)などから救済物資を得て、首都圏や都市部を中心にアメリカから輸入した脱脂粉乳やコッペパンによる給食などの学校給食が行われた。

これらの支援が中止されると、政府は給食を教育の一環と位置づけるため、経費の負担区分や国の補助を検討していく。

この時代、給食は校長や善意者の意思によって独自に行われ、たとえば錦小学校においては校舎の一部に補給室を設け、みそ汁を作り、時折パンを提供していた。
昭和28年(1953)に錦町長やPTAの支援により給食室を建設し、同年11月から週3回の汁物、週2回のミルク、その他の献立による学校給食をスタートさせた。

政府はこうした現場の状況を種々検討の結果、学校給食を法的に確立した、「学校給食法」を、昭和29年(1954)6月に公布・施行した。
給食費は小学校の設置者や保護者の負担とし、負担金の一部を国庫補助する内容を盛り込んだのである。

中学校においても、検討を始めた。
植田中学校では昭和29年(1954)2月から10月まで昼食の一部として味付けミルク(脱脂粉乳)を生徒に提供した。
このミルクはユニセフの国連国際児童緊急救済委員会からの無償配給品として支給された。


イ 学校給食法下の給食現場

植田小学校では、先行する錦小学校の状況を視察したうえで、昭和30年(1955)2月から学校給食をスタートさせた。

しかし、教育現場では混乱が生じた。
財政的な裏付けが明らかでないうえに、保護者の側にも給食費を負担することに抵抗感を示す世帯と、家庭における弁当を作る負担から解放される世帯に分かれたからである。

昭和30年(1955)4月に勿来市が誕生すると、小学校の学校給食は市内全域に拡大した。

さらに、昭和31年(1956)3月には給食を中学校へ拡大する改正学校給食法が公布されたことから、勿来市は年次計画で各学校に施設整備する方針を立てた。
このうち勿来第一小学校では、昭和27年(1952)から週3回ミルクとおかずで給食を継続したが、昭和33年(1958)2月からパンを追加するとともに、給食室を配置した。

しかし、各学校単位ではなく、集中管理方式で対応すれば経費的にも衛生的にも優れているとも考えられることから、昭和34年(1959)から翌年にかけて、学校給食を共同で作る調理場の実態について、関東圏の先行事例を調査した。
学校関係者のなかでも学校給食への期待が高まった。
昭和34年(1959)9月には、勿来市小中学校連合PTA会長名で勿来市議会に学校給食パン専門工場設置の陳情書が提出された。

これに対し、勿来市は建設することを市議会に提案して議決を得て、勿来市学校給食研究所が錦町大字大倉字川原(現中迎四丁目)地内に建設した製パン工場(315㎡)を借り受ける方式で、昭和36年(1961)10月から営業を開始した。
これはいわき地方では初めての取り組みで、給食提供対象校は市内8小学校と川部中学校であった。

この後、勿来市は全中学校生徒の給食を1か所で集中的に実施することとし、昭和41年(1966)8月、鮫川の右岸、仁井田町松原(現錦町花ノ井)に勿来学校給食共同調理場を完成させ、翌月から給食を提供した。
これまでのパンに加えて、ミルク、副食のそろった給食体系(給食室を整備した自校給食の錦小、川部中を除く)が整えられた、全国でも早い取り組みであった。

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http://www.irasutoya.com/ より