日本経済の復興を担った石炭産業と勿来地区

1.石炭優遇政策の「傾斜生産方式」

① 石炭の増産を梃子に鉄鋼などの生産を増強
敗戦によって農林水産業および工業の生産は大きく落ち込んでいた。
あらゆる物資が乏しく、それに反して物価は高騰し、インフレーションを引き起こし、しかもその勢いは急激であった。

この経済危機を打開するため、昭和20年(1945)10月、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策意向を受けて、政府は「石炭生産緊急対策要綱」を閣議決定した。
これにより、日本のほぼ唯一のエネルギー源となる石炭増産が経済復興の原動力として推進され、日本の経済指針「傾斜生産方式」として打ち出された。

その基礎となったのは石炭と関連のある鉄鋼業であった。
具体策としては、連合国軍総司令部(GHQ)の斡旋で海外から確保した石油を鉄鋼業に投入し、増産された鋼材を石炭産業に“集中的に傾斜”させ、その増産を鉄鋼業に還流させ、この勢いを梃子に電力、化学肥料など全般的に生産水準を高めるきっかけを創り出そうというもので、併せてこれを推進するための各種優遇策が打ち出された。

当時、外地から引き揚げてきた就労予備軍が大勢いたが、原材料の輸入が閉ざされたため、生産力の低下は防ぎようがなかった。
生産力を上げるにも電力が不足していた。
政府の推進する電力危機突破運動を受け、いわき地方においても東北配電(現東北電力)平支店は電力節約運動を掲げ、小名浜、四倉、植田の各変電所のある町村ごとに電力自粛運動を起こし、割当電力の超過使用を徹底して取り締まる、と新聞に報じられているような状態であった。

傾斜生産には、資金面の傾斜も必要となった。
この傾斜金融を担当する機関として、昭和22年(1947)1月、復興金融金庫が設立された。
資金の大部分は復金債の発行に依存し、これを日本銀行が引き受けるカタチで調達する手法がとられた。

復興金融金庫の活動は主に石炭産業に投入され、インフレーションが続くなか、昭和22年(1947)3月末に約10億円であった融資残高は昭和23年(1948)3月末には約199億円と伸び、さらに昭和24年(1949)3月末には約475億円、全復興金融金庫における全融資に占める割合は36%を占めた。
逆に石炭産業からみると、借り入れの7割が復興金融金庫の融資であった。
復興金融金庫が“傾斜金融”を裏から支える機関として動いていたことがわかる。

昭和22年(1947)6月に社会党の片山内閣が成立。
同年12月には、3か年の時限立法となる「臨時石炭礦業管理法」が成立し、翌年4月から施行された。



中央に見える山は大日本炭鉱のズリ山

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http://www.irasutoya.com/ より