「常磐」という名称の消長

歴史の一滴 3-2

明治元年(1968)に陸奥国が分割されて磐城国が成立した。
この名称は有名無実となっていくが、「磐城地方」という言葉は、漠然と現在の福島県いわき市あたりを指していた。

一方、明治時代以降、この地方を支えた石炭産出分布は、常陸国(現茨城県)と磐城国(現福島県)にまたがった、北は福島県双葉郡富岡町付近から南は茨城県日立市十王町付近までの南北95km、東西5~25kmに及んだことから、石炭分布地域を一括して「常磐炭田」と呼んだ。
文字どおり二つの国の一字(常陸、磐城)を採ったものであった。
常磐線も同じ理由で名付けられたものであった。
勿来地区は地理的には炭田のほぼ真ん中に位置し、「常磐炭田石城南部地区」と呼ばれていた。

時は昭和10年代末、太平洋戦争が泥沼化してくると、政府の方針によって戦時体制のための企業合併が各分野において積極的に進められた。
常磐炭礦(株)はこの方針に基づき、昭和19年(1944)3月に入山採炭(株)と磐城炭礦(株)が合併して成立したものであるが、命名の由来は両炭鉱が両県で採炭していたからにほかならない。

戦争終了後の昭和20年代、石炭や鉄鋼を主体として戦後復興を図ろうとするなかで、石炭産業は復興の牽引者としての存在を大きくしていく。
そのなかで昭和28年(1953)9月には関係自治体、機関・団体が一丸となって地域開発の事業を円滑に進めるため「常磐地区総合開発期成同盟会」が発足するが、範囲は福島県平市および福島県石城郡であった。
ここでの「常磐」は茨城県を除く地域に限られている。

一方、「常磐」は別な次元でもクローズアップされていく。
昭和29年(1954)3月に福島県湯本町と福島県磐崎村が合併する際に、双方が各々の案を主張して市名が決まらず、妥協案として両町村にまたがって事業を展開していた常磐炭礦(株)の名を採って「常磐市」とした。

その後、「常磐地区総合開発規制同盟会」の組織は「常磐地方新産業都市建設促進協議会」へ改組され、昭和39年(1964)3月の新産業都市指定へ向けては「常磐・郡山地区」という名称が使用されている。
同協議会は指定後、「常磐地方市町村合併促進協議会」に切り替えられ、合併へ向けた活動を展開した。

昭和41年(1966)10月に合併して常磐地区が「いわき市」と名付けられると、すべてに「いわき」が先行し、「常磐」の使用意義は失われていく。
石炭産業衰退の最終局面となった昭和51年(1976)の常磐炭礦(株)西部礦業所の閉山は、「常磐」を過去のものとする象徴的な出来事といえた。

補足だが、各種の「常磐炭坑」等の表記の出版物なども、いづれも固有の「常磐炭礦(株)」のみを指したものでない事もある。



fuladance_family
http://www.irasutoya.com/ より